昭和四十七年九月五日 朝の御理解
X御神訓「わが身はわが身ならずみな神と皇上との身と思い知れよ」
わが身はわが身ならず皆、天地金乃神の身と思い知れよ、とだけでも実はいいように思うのです。自分のものとてはひとつもない。この肉体の命も、天地金乃神様の、言うなら分け霊とさえ言う位ですから。親のものは子のもの、子のものは親のもの、といったような事を申します。そこに親子が一体であるという事。親のものは、子のもの、子のものは親のもの。だから私共が天地金乃神様、の身と思い思わせて頂ける時にです。そこには天地金乃神様も、又親のものは子のもの、としての願いに立たれる訳です。ですから子供にやる事を惜しみなく喜びをもって与えるように。
ところが親のものは、子のもの子のものは子のものといったような考え方をするから、本当のおかげにならんのじゃないでしょうかねえ。自分のものは自分のもの、自分の命である。そして神様の方から、摂取しょうとだけする神様から頂こうとばかりする。だからこちらがまずそれに没入すると言うか、神様のお心に入っていくという見方。それはいつも一しずくの水の例をもって申しますように。一しずくの水が谷川に落ちる。そして川に落ちる。そしてそれが大海に流れ出る。もうそこには、谷川に落ちた時はもう、谷川の水であり。川に流れ込んだらもう、川の水なんです。大海に流れ込んだら、もう大海の水なんです。
それは只一しずくの水に等しい私達なんだけれども、私はその神様と、一体になるという事は、そういうような事だと思う。わが身はわが身ならず、皆神と皇上との身と思い知れよ。そこで私は、本当は、天地金乃神様の身とおもい知れよという事。そこに神様も又、他人といった事ではなくなってくる。親子という事に、それを神様が認めて下さる。神はわが本体の親ぞというような御教がありましょうが、神はわが本体の親なのである。ところが人間は余りにも、大きい、余りにも漠然と、しておりますから、これをまあ同じ道理で説いてあるのが、皇上の身と思い知れよという事だと思いますね。成程教祖の神様の御時代、皇上とはここでは天皇陛下と指してあります。
当時は、例えて申しますと、一銭五厘のハガキ一枚で、私共の命を自由自在にしたのが国家でしたねえ。そういう義務があるとした訳です。こと戦争という事になると、それこそ一銭五厘、ハガキ一枚で、召集する。そしてその命を、自由に使う。まあ使われる事が有難い。それが君え対するところの忠義だと、そういう忠君愛国の精神がここでは、皇上という事になっております。現在ではそういう事はないですね。天皇陛下に命を捧げるなんて人はなくなりましたよね。と言うて天皇陛下を疎かにしてよいという事では決してありません。
そんならこれを一つの宗教国と致しましょうかねえ。金光教という、そんならお国にしますと、その長であるところの、教祖金光大神という事になる。教祖金光大神と頂いてもよい訳です。天地金乃神と教祖金光大神、本当にいわゆる帰依するという事はそういう事。金光大神に帰依するという事は、もう、金光大神に一切を捧げるという事。だから金光大神も又、私共に一切を捧げて下さる。例えば一番見易う言うなら、神の用を足せば氏子の用は神が足してやる、とおっしゃるような働きになってくる。
ですからもちっとそれを実感的に頂いたら、皆、天地金乃神と教会で言うならば、教会長であるところのそこに、教会長を親先生と呼び、もう親先生の為ならば、もうこの命も惜しまないという、事は、命をくれとかやれとかいう事ではなくてです。もう親先生に帰依をするという事なんです。だからここで言うなら皇上という事が、そんなら親先生という事にもなる訳です。法然上人様と親鸞上人様の、間柄のようなものです。
もう師匠はこの方御一人、実を言うたら沢山の師匠についておられます。けれどもそれを、本当に自分が帰依出来るほどしの師匠として、言うならば出合われたのは、法然上人ただ御一人であったという事。だから法然上人様のおっしゃる事がよし地獄道につながっとっても、さらさら厭わんというほどしの、ものであった。これはもう師弟という事よりも、今日、言うなら、神と皇上の身と同じ事になるのです。
だから教団でもこの皇上という事が非常に問題になる訳ですよ。けれども私は、神と皇上との身と思い知れよ、という事は、そういう解釈をつけるのが、一番本当だと思うですね。昔の殿様と家来達もそうでしょうが、そんならここに久留米の有馬さんという、殿様がおられる。その例えば家来達は、家老、足軽に到まで、いわゆる殿様を親として頂いた、身をそれこそ、こう毛の軽きにおいて、君の馬前に討ち死にする事を、一番の名誉としたでしょう。同じなんです。
だからその当時で言うならば、殿様を皇上と言うても、いい訳です。そこでそんなら純粋な信心で参りますと、わが身はわが身ならず皆神と皇上との身と思い知れよ、というその私が一番初めに申しますように、天地金乃神様だけで実はいいのです。けれどもそれを段々、そういう実感的に頂かせて頂く為に、そんなら私は教祖の神様と、何故か、教祖の神様が、天地金乃神様の御依頼を受けられて、この方金光大神あって神はこの世に出たと迄、例えば教祖金光大神を評価しておられます。
また天地金乃神と同根と迄おっしゃっておられる。ですから同じでしょうが、お取次の働きというのは、そういう働きが事実あるから、言うなら、合楽教会ででも親先生を中心にして、おかげ頂く事が出来るのです。親先生と例えば、三井教会長先生がつながっておる。三井教会長先生と久留米、久留米から福岡、そして小倉というようにです、つながっておる。そんなら小倉が二代金光様、四神様の御為ならば、もうこの命も惜しまんという、ほどしに帰依しておられる。
その四神様がまた教祖の神様え、同じ思いを捧げておられる。その教祖の神様御自身が、天地金乃神様と同根なのですから、同じでしょうが、一体なんです。だからこの皇上というのは、そういう意味で使わねばと思うのですねえ。だからこの御教は大体、金光教の教典から抹殺してもよい、抹殺しなければいけないというような、事を言う人達すらがある位です。今頃流行らんという訳です。けれどもここには、その当時の事から言うてです。結局日本国に住まわせて頂く者はその長であるところの天皇陛下に言わば尽くす事が、いわゆる忠君愛国という。その愛国者として、またそれを、名誉とした訳なんだ。
だから時代が変わった訳ですね。天皇陛下は、段々そういう意味に変ってきた。そこでこの御理解の真意と言うか、それを頂くところ頂くと、もうこれは大体は、天地金乃神だけでよい。神はわが本体の親と言うだけでよい。けれどもその本体の親を分からしめて下さった教祖金光大神、二代様、そして次々と、私共の先覚であり師匠筋であるところの、それを私共は親として頂いてきた。だからその親の為に、命をかけるという事になれば天地金乃神様の、おかげが受けられるという事の意味が分かるでしょう。
合楽教会に言わば、一生懸命になるという事は、天地金乃神様に一生懸命になる。教祖金光大神に一生懸命になる、という事になるのです。合楽教会に御神縁を頂き、合楽教会長に、帰依する。それは天地金乃神様に帰依するのと同じ事。まあそういう道理を言わば分かられた訳ですね。今日は、そこでです。本当にそんならそのようにならなければいけない、という事です。御神縁を頂いとっても、赤の他人であったり従兄弟通しであったのではいけないのです。だからそこのところを、ははあ今日は有難い事が分からせて頂いた。こういう意味ばいなと、言うて分かっただけで、言うなら満足しておるような事では、信心の真味に触れる事は出来ません。そこで追求する、求めていかなければいけんのです。どういうようなあり方になったら。
昨日も神愛会でございましたから、先生方の会です。末永先生なんか前の晩から、それこそ海を渡って、二時間余りの信心会合に出て来ます。熊本の日奈久の先生なんかでも、やっぱりそうです。丁度ある教会の総代さんが参り合わせましたから、どうですか急ぎなさらんなら、先生方の話聞いて行きなさらんですか、と言うて、勧めましたから、傍聴されました。そして大体御信者さんとしてです。先生方に何かひとつの、要求願いというものは、ないですか。今日先生方ばっかりですから、信者として、中々先生には言えない。けれども先生がこげんあって頂くとよかばってんと、言うようなものはないですか。
永年信心しておられますから、もう、若い時から、いろいろ思い願い続けてきた事がいろいろあると言うて、話されました。第一お道の信心では親先生を拝めと言うけれども、拝まれないと言うのです。だから先生が拝まれるほどしの先生になって下さい、というのが信者の願いだと。成程、そういう事になってこないとです。今日のここの御理解のところは、分かっただけでおかげになって来ない。だから先生を拝め拝めと言うて、ここで私を拝め拝めというのじゃない。
これは私、先生方に話した事ですけれども、そんなら御神格を頂いて、金光大神という御神格を頂いて、もう本当に生きながらの神様になるというだけではありませんし、それという事はとてもとても至難中の至難です。けれどもね、信者が一番尊いとか、有難いと思うのはうちの先生はまあだお若いけれど、も、あの神様に向かわれての一生懸命の姿に触れたら、なあも言う事はない、というのがこれは、私が信者時代に感じたです。まあだ善導寺で修行生であった星野の池上先生なんかが、善導寺で親先生の手代わりをしておられる。もうその親先生の手代わりですから一生懸命です。
あちら辺りではお参りをするとお参りするたんびに御祈念をして下さいます。それで御届帳を持って御神前へ出て、もう一生懸命の御祈念をされます。もう本当に、金光大神のお取次を頂いとるという感じでとても有難いです。一生懸命という事なんです、問題は。それでそんなら信者がお参りをする。お結界には誰もござらん。もうしと言わなければ裏から出てこないような事ではね、信者はとても拝もうと思うても拝まれませんよ。
と言うてそんなら人間じゃから、裏に引っ込んどる事もありゃあ、テレビ見よる事もあるけれどもそういう時に、先生方自身が、いつも神様と交流しておらなければいけませんという話をした。神様が何とはなしにテレビを見ながらでも言うなら、神の声を聞く訳です。天地のリズムに乗る訳です。乗っておかなければいけない。ですから例えば座っておると、例えばここでもそうです。私が時ならぬ時に座っておると、私でなからなければ、ここに座っておかなければ出来ない人が参って来る。
だからそういう人が参って来た。だから裏から出て来た、というのではね、ピンとこんのです。だからそういう言わばお繰り合わせを頂かなければならない。親先生を拝まにゃ、神様と頂かにゃと言うけれども、そんなら親先生とてもやはり人間ですから、生身ですから、けれどもその親先生の一生懸命に神様に向かわれるひたむきな、あのお心には打たれるというものが、拝む事になるのです。同時に信者の方としても、誰が、例え、藁人形が座っておっても拝めれるだけの信心というのは、所謂われとわが心が拝めるほどしの、信心を高めて行くならば、誰が座っておっても、拝めれるんですよと言うて、まあ話した事です。
天地のリズムを体得する。これは昨日末永さん宛に手紙が来てる。鹿児島の大口市という所に、布教に出ました。末永先生どんが、同期で本郷の息子さんです。学院を出られて、もうしげしげとここへは通うて来られて、合楽の信心を。それは勿論、お祖父さんが甘木の初代ですから、いわゆる毛並みがいい訳です。お祖父さんの信心もさる事ながら、合楽で現在こうやっておかげを受けておる。その事実を、もう本当に、この眼で見たいこの耳で聞きたい、というのが安武先生の気持ちだったと思うのです。
もうあちらへ行かれる前に何回もこちらへ見えまして、いろいろおかげを頂いて、もう本当に、先日から、お母さんの代参と言うて、高校生と中学生の兄弟が二人で参って来た事を、もう大変な喜びとしてですね、手紙が来てました。私も来ておった。だから本当にです。その気持ちを忘れなかったら、いいよと言うて私は、その事をやってくれと言うて手紙にやってもらいました。もうちゃんと一日座っとるだけで誰も訪ねて来ん訳です。参っても勿論来ない。その子供達が二人母親の代わりと言うて参って来た。それが有難うしてたまらじゃったと、こういう訳なんです。
だから初心忘るるべからず誰でも初めの事を忘れるから、教祖様もそれをおっしゃっておられる。初めの事を忘れねばおかげだとおっしゃっておられる。いわゆる信心は日に日にさらという訳なんです。それで末永さんがその事を親先生にお届けさせて頂いたら、親先生もえらい感動された。そしてこの心を忘れるなと、ことずけがあった。書いてやってくれとおっしゃったという、事を書いてよこした。丁度その手紙を受け取った時に、やはり一生懸命御結界で奉仕をしておった。
もう朝から、誰あれも参って来んで、心は暗あーくなって、果たして自分のような者で、人が助かるじゃろうかと思うて、もう寂しゅうて寂しゅうてこたえんところに、いわゆる信心友達である末永さんから、手紙が来た。そしてその心を忘れるなという。そんなら私の言葉、に大変元気が出て、おかげを頂いたが、もう一遍ここんところを押してお尋ねしておくれ、と言うて手紙が来とります。どういうような信心させて頂いたら、いつ迄も初心を忘れんですむでしょうか、という質問であった。
私はそれを頂いて、本気で求めておる人の姿をそこに思いましたね。普通ならです。初心忘るるべからず。初めの事を忘れなさんなよと、はあそうですなあと言うて、言うだけです。そして、初心忘るるべからずという事は知っておりながら、分かりながら、いつの間にか、希薄になってくるのです。私は信心を追求する。今日私が申しました、分からせて頂くという事は、聞いた、けれどもまあだ本当に分からんなら、私は尋ねて来なければ虚言だと思う。でなかったら、自分のものになりません。
今日先生がおっしゃったがあの事はどういう事ですかと、金光様の信心すりゃ実意になりゃいいです。実意丁寧になればいいですよと。三代金光様がある青年に教えられた。そしたらその青年は、そんならその実意とは、どういう事でございましょうかと言うて、お伺いをしたという事。初めて答えられた、我がままと横着をせねば結構ですと、おっしゃった。誰あれも、そんな事は、知らなかった。やはり追求しなければならない。
そんなら例えば今日のここんところでもそうです。わが身はわが身ならず皆神と皇上。ははあここの皇上という、天皇陛下という事だけれど、も今日、の信心では、それを教祖金光大神と頂くべきだ。それは親先生と頂いてもいいという事を聞いて頂いた訳でしょう。けれどもその事がです。分からんなら分かる迄、又それを皇上として頂けんなら、頂ける迄の信心を、そんならどういう風な信心をしたら、それを皇上と頂けるでしょうか、というような、追求がなされなければいけないと思う。
その安武先生がその事を言うてよこしたと言うから、私もほとほと感心した。成程毛並みがいいなという事です。素質があるのです。それで早速返事を出してくれと言うて、神様から頂いた話をさせてもらい。その話が昨日の先生方の話の中心テーマになった訳です。その事を私神様にお願いさせてもらいよりましたら、ね、久富正義さんが立ち上がりながら、ちった調子の軽い、あの人は大体は調子の軽い人じゃ決してありませんね。皆さん御承知の通りに、中々の人格者です。この御造営の委員長にまで押される位の人ですから、もう合楽きっての人格者です。これは信心のある者もない者も認める、ほどしの人格者です。
ところが人間というものは、少しおかげを頂いて参りますと、昨日の私のお話じゃないけれども、本当にどうにも出来ないものが手の平を返すようにお酒屋さんになってしもうた時分の調子の時に、ひとっつもという訳じゃないでしょうけれども、神様のおかげでというのが非常に薄くなっておるです。やはり自分がやり方がいいからだ。もう自分は商売の神様になるごたる気持ちでおる訳です。そんなら正義さん達のようなああいう信心もでけ、人格者でもある人でもです。
調子ずいて段々おかげを頂いてくるとです。丁度昨日私が御心眼に頂いたように、御飯を立ちながら頂いてこう、軽々しい感じなんです。また事実そういうものを感じます。又おかげを受けてますもの。この御造営が始まってからのおかげというものは、兎に角何日がかりでなからにゃ纏まらんという話がもう。例えば先月の原さん所の宅祭りの日なんかはね、そうじゃったんです。大体はあの日は原さん方におかげ頂けんはずのつが、実を言うたらこういう大きな仕事がこういう短時間で、しかも久富建設にと言ったような事に、お繰り合わせを頂いたと言うてお届けをしております。
ですからやはり自分が人物がいいから、皆んなが信用するんだと、信心しよるけん皆んなが信用するとは思うてない訳です。また自分が信心するからと人に宣伝しきらん人ですもんね。この人は、どこ迄もただ自分の人物がいいから、皆んなが信用して、久富さん久富さんと言うのだという風にしか思っていないですから、これは言うなら、だから調子が少し軽くなる訳ですよ。私が安武先生のその事を初心を忘るるべからずと。それにはどういう信心させて頂いたらよいでしょうかと、言うて神様にお願いさせて頂いたら、そういう正義さんの姿を頂いて、立ちながら、御飯を、頂いておるけれども、どっこい耳にですね、側にラジオがあって、イヤホーンを耳に当てて、おるところを頂きました。
ははあこの人の信心のまあ素晴らしいのはここだなと思う。どういう調子に乗らなきゃならん時でも、いつも神の声を聞きよるという事。こらっと言う神の声を聞くと、ハッともう、我にかえっておる訳です。私は合楽で一番素晴らしいと思う事は、こういう事を、合楽で暫くお参りして来よりますとです。直ぐ体得が出来る事です。私の子供達、栄四郎なんか、今高校に行きよる訳ですけれども、例えば久留米に遊びに行きたいと思うておっても、親先生がここでブーッとした顔してござるなら絶対お届けせんです。ははあ今日はお許し頂かんとばいなと直ぐ頂く訳です。
けれども私がにこやかにしてある時には、どんな事をお願いしてもいいと、思うて、久留米に行きますという事でも、お届けする訳です。それでもバスの停留所まで行ったけれども、都合よう来なかったら、ははあ今日はお許し頂かんのだなと、いつもその神の声を聞く事に精進しとる訳ですよねえ。今頃からも丸坊主になってきとりますもん。どうした心境の変化じゃろうかとて思うたら、受け持ちの先生から、ある事を注意された。そん時にハッと思うてから、そんなら僕は坊主になりますという。
明くる日坊主になってきたから、先生がもう、えらい感動されたげな。というようにです。もうそれを先生の声とせずに、神の声としてパッと、頂く稽古をしとる訳です。そういう意味ではですね。例えば成程テレビを見よってもラジオを聞きよっても、そこに神の声があり神の姿がある訳です。それをキャッチしうるところの、心というものを、鍛えていく。それを、私は昨日こういう風に、『天地のリズムを体得する他はない。リズムに乗って行動する事を覚える他なし。神吾と共にありとは、この事なり』。
神吾と共にありとはそれなんです。だから神様がいつも、ささ やきかけて下さってある、事が分かるから、神と共にあり。言うておる思うておるだけじゃ駄目です。神吾と共にありという。これは、金光様の信者の全部が言います。けれども、神の姿をそこに見ず、神の声をここにも聞ききらなかったら、共にありとは、言えないじゃないか。『神の声を聞き続ける事なり。さらな心はそこから自ずと生まれてくるなり』というような風に、その正義さんの頂いた事をそういう風に頂きました。
人間ですから、調子に乗る事もありましょう。又は、人は見られんごたる状態の時もありましょうけれども、そういう時にです、神の声を聞けれる。天地の奏でて下さるところの、リズムに乗れれるという事がです、素晴らしいんです。だから安武先生にその事を、書いてやってくれと、この生き方を体得すれば、いつも初心というものは忘れられるというものではないという事。日に日にさらな新たな、信心が出来ると言うて、やりましたが。信心をさせて頂いて、痛いのが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なのが有難いのぞと。
金光様の御信心すれば、そこが自ずと分からなければいけんでしょう。難儀な事が起こったからお願いをする。おかげを頂いた、それが有難いのじゃない。普通で言うたら、平穏無事の何でもない時ほど、有難いのであるから、いよいよお礼の信心が、出来るという、信心でなからにゃ金光様の御信心は、分かったとは言えんのです。何か難儀な時だけ参る。勿論そこから始まります。けれども痛いのが治ったのが有難いのではない。いつも壮健なのが、いつも健康である。何でもない時が有難いと分かるから、神恩報謝の信心生活が出来るのである。
そういう信心が分からせて頂いて、今日のところが分かる。そこからです、わが身はわが身ならず。もう本当に、教会発展の為ならば、それこそこう毛の軽きに置けれるほどしの、信心。今日は忙しゅうございますけんてんなんてん言う事はいらんて。そこにです、そんならどういう事になるかと言うと、神様が今度は氏子任せになって下さる。神様の為ならば一切を投げ打ってでも、神様の心の中に溶け込んだ訳です。
そこから神様もまた氏子の心の中に溶け込んで下さる。今日は御用のある、例えば十三日会のごと。今日はちょっと都合の悪かけんで、ちょっと忙しかけんでと。私はここんところをです。決然としてですね、踏ん切りをつけれる信心でなからにゃ徳は受けられんです。それは決して、いいやそげん忙しかつば、やって来んのと神様は絶対おっしゃるはずはない。けれども問題は受ける方の側が、その打ち込みがあるからこそ、神様もまた打ち込んで下さるのですからね。そういう風に段々説いて参りますと。今日のここのところの神と皇上との身と思い知らなければ、いけない事が分かりますね。分かっただけじゃいかん。
だからそんならどうすればそういう風に、わが身はわが身ならず神と皇上との身と思い知る事が出来るか、という事を、皆さんは追求せんなりに、今日私は皆さんに聞いて頂いた訳です。それでもなおかつ分からんなら、また追求してこなければいけません。わが身はわが身ならず皆神と皇上との身と思い知れよとは、そういう風に頂かねばならんと思うのでございます。どうぞ。